No.65 くやしい一心で眼もまハさず
私は落涙を禁じ得なかった。加賀金沢に生れ、親と江戸に出て巣鴨に暮らし、十三歳で十五年季の遊女に売られたカメが、年季明け一年前になって朋輩十六人と示し合わせその遊女屋に放火、自首するという嘉永二年(一八四九)一件について書かれた横山百合子氏の論文。
遊女屋の主・佐吉は統率力のあるカメの年季を長引かせようと、逃亡した遊女玉芝を捕まえた折、玄能でもって頭を打つという折檻により、逃亡はカメにそそのかされたと玉芝にウソの証言を強要、カメを朋輩三十八人の前に引き出し、裸にするや縄に縛り上げ、弓の折れで四十五も叩き、飯も食わさぬという折檻で二年の年季延長を認めさせたーという事の次第。見出しはカメの日記に出る語で、「えり首や手のくびれるほど」締めあげられたけど、死んでたまるもんかと眼を回さなかった。序列筆頭の遊女が朋輩の前でウソを認めさせられる悔しさは、体の痛苦に勝った。朋輩たちの協力で玉芝の白状をとったカメは、三年後に迫る年季明けをうち捨て、火刑を覚悟した放火を仕組んで、佐吉の非道と冤罪を訴える、恥辱を晴らす道を選んだ。人間はかくも誇り高い。
私は晴らすことがかなわなかった。四十四年前のある出版社。借りた写真一枚を私が紛失。社長は社員を集め、皆の前でもう一度、探すよう命じた。編集長をしていた私は、部下たちの前で一時間、探し尽くしたデスク周りの再捜索をした。徹夜残業の頃の、私に非のある責め苦であったが、人前にさらされ、逃亡できない空間に居続けさせられるのが拷問であることを身に刻んだ。落ち度のないカメの受けた恥辱はいかほどであったか。
南町奉行・遠山は佐吉と放火に直接かかわった遊女三人には遠島、カメたちには軽い禁固を命じている。
カメの日記原文は平仮名ばかり。遊女がなぜ日記を書くのか。「それが、人をその先に進ませる力をもつ」からではないかと横山氏はいう。私の祖母は鉛筆で平仮名ばかりの置き文をして何度か家出した。孫の前でその母親(と祖母は仲が悪い)から受ける何かの譴責から逃れるためだっただろう。書くという行為は切ない。