No.63 これから美容院に行きます
見出しはキエフに住む女性が叫ぶように言った言葉。二月二十五日の朝かその前夜だった。とうとうロシアが三方向から侵攻を開始――そう伝えたテレビが、ウクライナの人々にインタビューしている。四十代に見えるその女性がまっすぐ視聴者を見て「殺される時は美しくいたいから」と続けた。私は凍り付いた。彼女は戦線に向かうつもりではないか。
ゼレンスキー大統領は「私はここにいる」と官邸にて応戦を宣言。応召義務を20歳から60歳の男性に課したが、女性の志願も容れているようだ。
飛来する戦闘機、破壊された戦車、食事をしながら戦争のテレビ中継を見るなんて――思いながら私は食べ、見続ける。憲法九条をもつ日本にこんな侵攻があったら、どうする。自衛の戦いは許されるというが、武器を取って立ち向かうなんて私にはできない気がする。画面に向かって「もう手を上げて」思わず口に出す。三人の女性編集者は「侵略者の下で生きて、どんな人生があるっていうんですか」と叫ぶ。たしかに耐え難いだろう。けれど、アフリカや中東では多くの人々が侵略されても生きてきた。香港の人も人生はけっして手放さないだろう。戦って死ぬより、生き延びることがもっと大切。降参して耐えていくことはもっと大きな戦い。そうではないのか。
殺される時は美しくいたい――侵攻の恐怖の中で自分はどうするか、突き詰めた思いがここにある。人間という存在の限界を知った上で、それを乗り越えようとする気持ち。殺されることを覚悟したのに、生きていたいという顕われも見えて謎めく声だ。ベラルーシのノーベル賞作家アレクシェービッチ氏は著『戦争は女の顔をしていない』で「人間は戦争よりずっと大きい」と述べ、第二次大戦時のソ連の女性兵士(百万人という)の奥深さに触れている。「機銃掃射を受けた時も、殺されたくないと思うより、とにかく顔を隠したものよ」と。
武器を取って戦うか否か。生きてきたように死ぬことはますます難しくなってきた、そう思う。一貫しようとして誰もが悶えるだろう。そこで生き方を変えても、誰も責めないだろう。自分の命なのだから。私はきっと…。(勝山・三月六日記)