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No.59 元禄三年の米留め騒動が始まり。

 米騒動百年の今年七月、朝日新聞「天声人語」が富山人の意見を紹介した。富山県の米騒動は「米の一粒も奪わず、検挙者もいなかった。それなのに女房連が暴れ、米蔵を打ち壊したかのように語り継がれてしまった」、彼女らは米商に対し米移出をやめてと哀願したのであって、暴動ではなかった、その史実を広めたいと。
 打ち壊しはなかったという史実についてもちろん私は同意する。しかし、暴動ではなかったことをもって米騒動の再評価としたいというその文脈には危うさを感じる。暴力的な要素があると米騒動の評価が下がるとでも言う人がいるのだろうか。水橋町で米移出のため米蔵から港に向けて荷車を曳く米商の人夫に女房たちはその足に取りすがって阻止、入港した汽船を襲って米積み込みを阻止しようとした史実などは、それでは隠れてしまわないか。
 米商店での対峙の核心は新聞によれば次のようだ。米商の妻に対し数百名の女軍が「米を売るな」というや、利かぬ気の妻は「私の所は商売だから売るも売らぬも勝手なり」と言い放つものだから女軍は大いに怒り妻に悪罵を浴びせかけ…。
 米商の言い分は「売るも売らぬも勝手」つまり商いの自由権。対する女たちの「米を外に売るな」は生存権というべきもの。史実では元禄三年(一六九〇)が富山で叫ばれた最初。富山城下町の町会所や奉行宅を「大勢」が詰め「米留」について騒ぎ、町人二人が磔、町役人二人が処払い、奉行二人が閉門と記録にある。
 二つの権利とも重要だが、支配層は最終的に生存権に配慮、米商宅の打ち壊しは済むのを見守るという態度をとった。米留め騒動から二十七年後の享保二年、滑川町で「置き米」仕法が町役人によって創出されるのは、打ち壊しをなくしたいのもあると私は見る。一部を町衆に置いていくから移出させろ、置き米は安米の原資にという仕法。ここから二百年、北陸沿岸に仕法は存在、大正七年時も発動された。激突する権利と暴力を正面から見つめて初めて人間の苦闘は浮かび上がる。暴力性に眼をつむれば歴史を見誤ることになろう。(勝山)