No.55 「これこれ魚屋、魚があるか」
人形浄瑠璃「呉越(ごえつ)軍談」の一節。呼びとめた侍女たちに魚屋は言い返す。「どなたもヘソはござんすか」「ヘソが無うて何としよう」「そんならこちも魚屋じゃもの、肴がなくて売るものか」。
一七二一(享保六)年、これを大坂豊竹座の初演で見た越中人がいて観劇記(小社刊『内山逸峰(はやみね)集』=品切)を残している。込み入った話の筋を内山氏はメモした。この魚屋は越(えつ)王の功臣范蠡(はんれい)が身をやつしているのだが、「范蠡とみるはひが目か」と不安げに記す。そういう理解の困難を伴うものながら、前日は出羽座と竹島座をはしごし、豊竹座では囲い席で観劇、走り書きする豪農内山氏の姿は人形や歌舞伎芝居が日本中をすでに席巻していたことを思い出させる。越中富山に大坂の人形浄瑠璃がきたのは二十年も前の元禄十四年。中国史劇や「太平記」話に仮託する現代劇としてそれらは地方でも観られるようになっていた。あまたの浄瑠璃本が出版されて、三味線語りに素人も挑戦し始めるようだ。
呉越同舟や臥薪嘗胆の熟語を生んだ名ドラマの土産話をもって内山氏が帰郷した四年後、富山藩は歌舞伎踊り禁令を出している。町方の若者たちが村々に行って人集めに踊るという。禁令は何回も出るから浄瑠璃がいかに彼らの心の発熱をうながしたか、である。たとえば、先の魚屋の突っ込み。「どんな魚がある?」というところ、「どんな」を省くことはある。そこを「ヘソは?」と意表をついて返し相手と笑いつながる。無礼と紙一重の切り口ー言いにくい目上へうまく返すには危うさが必要で、細い綱を伝って相手のふところへ飛び込む、そんなリスクをとるから相手は笑う。人は自分のふところを開けるとき、必ず笑う。おかげでこの世はおかしさにも満ちていると気づかされ、駄洒落であれ何であれ他人を笑わせようと多くの人が心がけるようになった、そういう歴史ではなかったか。村の寄合に出ても人なつっこい顔の、何を生きる張りとされてきたか一目で分かる村人が昔はたくさんいらしたもの。
私は自分にかまけるばかり、娘や孫たちが来ても話に入れず、ただつくねんと彼らの会話を聴く。人を気持ちよくさせる語り口はめったに見つからない。(勝山)