No.47 喰わずに死ぬか、殺されて死ぬか
明治二十三年、(一八九〇)四月十七日、富山県境に近い、新潟県の能生町で一揆を起こした女房たちが叫んだ語。米価が高騰、小売りをしてくれなくなった米屋を襲って彼女らが、いざうち壊さんと空いたお腹の底をしぼり上げて叫んだものである。切実さを充満させた物言いは、富山県高岡市「臨終の名残に市中に火を放つか竹槍席旗の一揆をはかるか」、福島県「阿武隈川に身を投げるか、罪を犯して懲役の刑でも受けるか」と各地にある。
飢えに迫られる人は現代の日本にも常在する。路上生活者といわれる人々に年末年始、避難場を設けようというので、内閣府参与の湯浅誠さん(『反貧困』の著者)が駆けずり回られるのをNHKスペシャルで見た。生活相談がただのアンケート調査になりかけたり、入居者への館内放送さえ気配りしない官僚がいたり。現実の困窮者に対し人間的に振舞おうとしたら莫大な気苦労を要する─そのことが分かっている官僚たちは悲しそうだったし、湯浅さんも苛立ちを抑えてやはり悲しげだった。それでも国家には貧困対策を引き受けさせねばならない。一人として同じ状態にない困窮者に対応していかねばならないケアの限りなさ、私人にその持続は不可能だからである。
思想家の内田樹氏はネットカフェに長期滞在する困窮者の誰ひとり「みんなで家を借りない?」と声をあげないことに注目される。明治の女たちが一揆徒党できたのは互いの暮らしを知り合う共同井戸端で誰かが声をあげたからである。しかし、カフェの彼らは「自分らしさ」を放棄できない、他人の生活習慣と折り合うのが飢えるよりイヤなのだ、そう内田氏は指摘される。そこまで共同体を拒むようになった人間にも、どうせ死ぬなら罪を犯して─という、一揆者と同じ痛哭が生れようが、その痛哭こそ他人との関係を求めるもの、そのことに気づけば、彼らの胸底はきっと変わる…。
(2010年4月20日 勝山敏一)