No.43 天然ウドにはアクがある
気晴らしに事務所を出て、 近くの広場 (縄文遺跡) へ向かった。 真っ青に晴れ渡った空に、 刷いたように絹雲が走っている。 広場の草原では少年と若い父親が二人野球に興じていた。 一人が投げ、 一人がバットを振る。 当たれば一塁 (!) まで走って元の処まで帰る。 ピッチャーに替わった少年が私に気付いて、 振り向いた。 父親が早く投げろと急かしている。 心地良くて私は大きなベンチに寝転んだ。 目を閉じる。 瞼に、 すぐ真紅のカーテンが現れる。 それが揺らめき光る。
《ああっ、 …とれんよー》
草原にもつれる父と少年の声。 五体を大地に広げ、 空を見上げるだけで、 こんなにもたやすく幸福になれるのがいぶかしい。 先までの屈託は、 いろいろな社会問題について私に断言できることは何一つないことだった。 自分に嫌気が差していた。 それなのに、 今は我が身一つにかまける快楽の中で、 陶然と己の全てを容認している…。
《だめ、 だめッ……待ってー》
父子たちの声に耳朶を打たせ、 目を幾度か開けて空の青さを見つめると、 反動のように、 自分をそのまま肯定してはいけない、 いつも自分を何か大切なものに照らして恥じるというふうでなければ―そんな思いが立ち上がってくる。 だけど、 できない。 人は強くない、 そんなに強くない。 弱い人間でいいと誰もなぜ言わない? 「強くなくていい社会」 ってないのだろうか?
話は変わる。 山岳エッセイで著名な佐伯邦夫氏が、 辛辣な社会時評を小社から。 序文に 「アクはエグイけど、 そこがまた旨さだとされる。 アク抜きを厳重にやれば、 そのものの持つ固有の旨さもまた、 淡いものになってしまう」 「文章は格闘技」 とある。 省略法をこれほど駆使して意を達せられるのは見事。 文章を考え抜いた人が、 ここにいる―打たれてこれを上梓した。 (2006年11月1日 勝山敏一)