No.38 問われて答えに窮する分だけ、 報酬を
イラクで人質になり後に解放された3人の内の一人、 写真家・郡山総一郎さんが富山で講演された。 彼が言いよどんだところがある。 イラク人の死者の写真をスライドで映した時である。 カメラを死者に向けた時、 遺族から《お前はそれで幾ら金をもらうのか》と激しく咎められて答えられなかったというのだ。
カメラを通さずとも、 人の視線というのは真っ直ぐ人の核心部に届く恐ろしいもの。 人は人の核心にいきなり迫ってはいけない。 ジロジロと人を見てはいけない。 視線はどこの国でも作法を求められる。 生者が死者に代わってカメラを遮ろうとするのは、 その本質的な無礼さが許せないからでもあろうが…。
郡山さんは 「今回、 自分が撮られる側になって、 あの人たちの痛みが少し分かるような気がしました」 と言われた。 辺見庸氏も20数年前、 カンボジア難民キャンプで同様の拒否に出会ったようである。 カメラを向けた瞬間、 遺体を並べていたシスターが 「ノー!」 と叫んだという。 「あれは、 不幸を絶対安全圏から表現するということの原罪にかかわることなのかもしれない」 と彼は記す。
この世は《汚れ役》を必要としている、 私はそう呟くしかない。 人の不幸は誰かが伝えねばならない、 人に問われて答えに窮する分だけ、 報酬をとりなさい、 そうして初めて他人の不幸はいくらかお前のものになる、 報酬が多いほどお前は不幸を大きく担うだろう、 私がいつも自分に向かっていう言い逃れだ。
肝に銘じておこう、 「ノー!」 は見咎めた一瞬に発せられることを。 倫理の判断は一時間も考えた末ではない、 一瞬になされる。 眼はそれほどに恐ろしい。 私もいつか、 根源的な視線にきっと試される。 (2004年7月20日 勝山敏一)