No.36 「壊れた時に、 真実が見える」
見出しは30年前、 公務員の僕がアルバイトでコピーライターをしていた頃、 広告紙面に書いた一節だ。 列島改造論で沸き返った後、 誰もが自然破壊の進んだことに気付きかけていた。その自然破壊をテーマに《手重し》という語を使った。 語が丁寧なさまという意を持つのは、 ズシリと手に重い壷などは自然に扱いが丁寧になるということからであろう。
当時、 日用品が次々とプラスチック化され《手軽》になっていくことに違和感を覚えていたから、 この語は胸に響いた。 モノは軽ければいいわけではない、 少し重過ぎるほどのモノこそ永く用いられる (この時は《真実》のように感じられた)。 自然が壊れたとき人は、 その取り返しのつかなさに気付いたが、 壊れない軽さを手にして何に気付くのだろう―というような締めだったと思う。
この後、 僕は公務員を辞めて出版社に勤め、 役員になった途端に倒産、 セールスマンとなって見知らぬ家の前で立ちすくむなど、 幾つかの壊れに出会った。 それは胃の腑に何かがストンと落ちるような時であった。 小さな塊のようなそれこそ真実なのだと僕は思うようになった。
小社の最新刊 「ザ学長」 は入試ミス・隠蔽事件を公表し被害学生に謝罪するという火中の栗を拾った国立大学の学長の手記である。 逃げる前学長、 誹謗する教授、 激震に襲われた人間模様を描く中、 吉野弘の詩が引用される。 その一節。
「無関心でいられる間柄/ときに/うとましく思うことさえ許されている間柄/そのように/世界がゆるやかに構成されているのは/なぜ?」
壊れを体験した人にしか発せられない問いであろう。 (2003年6月1日 勝山敏一)
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