No.35 私たちは記憶の連鎖を生きる
「…13、4なる少女が34人うち連れてかの蓮華草を摘んでいた」
図書館で100年前(明治29年)の新聞を繰っていて、 ある随筆の一節が目にとまった。 「雪のような細い手が紅い花の上をさまよっているところなど実にどうも可愛らしい…」 と続くところで、 軽い眩暈を覚えた。
少年期、 僕は折れやすいレンゲ草で花輪を作ったことがある。 辺りに誰もいないのを確かめて花輪を首にかけ、 ウットリ花畑に寝そべったことを思い出した。 花の美しさを少年同士で言い合うことはめったにない、 花を愛でるのは少女という眼差しが強くある時代だった。
先の随筆作者は、 帽子にバラの花一輪を挿して散歩に出掛け、 「世に花ほど優美なものはない」 と書く男性である。 キザな男ぶりを売る文とは見えないので、 100年前、 花を愛でることにジェンダー的な差別はなかったということかもしれない。
それより、 この一文から自分の記憶が蘇ったのはなぜか。 レンゲ草というだけでは決して想起しなかっただろう。 細い手が紅い花の上をさまよう、 という微妙な映像に触れて初めて僕は自分の記憶にアクセスできたように思う。 私たちは記憶の連鎖を生きているので、 他人のが入り混じり、 どこからが自分の記憶か定かでないほどだが、小説やテレビドラマを見るとそれらにリアリティがあるかないかは瞬時に判別する。 誰もがふだんに自他の記憶の微妙な重なり具合を楽しんでいる賜物なのだろう。
小社の 「感化院の記憶」 が鳥取の本の国体で 「地方出版文化功労賞」 に選ばれた。 とても嬉しい。 他人と物語を介してつながれることがこんなに喜ばしいとは…。(2002年7月25日 勝山敏一)