No.31 かけがえのないものを失って
小社の 『記憶』 シリーズは7冊となった。 『村の記憶』 を出す時に《廃村》という語では村の人々を悲しませてしまうというので《記憶》という語を使用したのが切っ掛けだが、 元住人の方々からご注文をいただきながら思ったことがある。 村の 「かけがえのなさ」 である。 山を下りた元住人たちは今も哀切きわまりない望郷の念を抱いている。 どんなに不便で生活が困難であっても、 そこは村人たちの掛け替えのない場であった。 そのことが私の身にしみた。
東京に仕事場を持ちながら群馬県上野村にも通い農民を続け、 在野の哲学者と呼ばれる内野節氏はこう述べている。
「20世紀の一番のマイナスはみんなを交換可能な人間にしてしまったことでしょう。 19世紀までの社会も一面で交換可能なものはあった。 商品もあったし。 しかし、 村の暮らし、 人間と人間の関係など交換できないものも厳然とあった。 決して他のものでは代替できないものだった。 それが20世紀も終わりになると、 極端に言えば誰一人《かけがえのない人間》はいなくなった。 社長を含めて…ひょっとすると家庭内でもかけがえのない父母はなくなって…」
人々は (私も含めて) もう、 これでは耐えられない、 やっていけないという感情に包まれている。 どんな軌跡をたどったからこんな世界になってしまったのか。 遡ってこの目で確かめてみるしかない…これが私の 『記憶』 シリーズの出発点だった。
遡るにも、 人々の感情の籠もった言葉と出会わねば意味がない。 聞き書きが基本となろう。 一人一人の中に掛け替えのないものは記憶となってこびりついている。 どんな必然性と引き換えに、 その大切なものを私たちは手放したのか。 それは果たして必然であったのか。
近代とは何だったのか。 近世と近代はどのように違うのか。 生身の人間を通して、 この目で見えるような形で捜し出さねばならない。 著者がいなければ、 編集部が直接そこへ分け行ってみなければならない。
先の内野氏は 「裏山に登り、 日だまりの落ち葉に埋もれて横たわる時が至福の時だ」 と言う。 会社勤めを《稼ぎ》と割り切り、 もう一つの世界を手に入れるべく、 時間のバランスに人々は大きく舵を切るようになるだろうと。 『記憶』 シリーズは 「感化の記憶」 「漂流の記憶」 「蘭方の記憶」 「戦争の記憶」 「民主の記憶」 「米騒動の記憶」 と続く。 (2000年5月1日 勝山敏一)