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No.30 「世界はそこそこ楽しい、 だが無意味」?

「イヤだと思うこと、 百箇条ほど挙げられるようになってください。 そうすると生き方にスタイルができてくる…」
私が地元の大学に頼まれて学生たちに話した《足許のパブリック》の一部である。 小林よしのり氏は 『戦争論』 でイヤなことでもしなければならない、《公は国家》と主張しているが、 イヤなことをイヤと言挙げできる《私》がなければ《公》は始まらない。
食事の時にお茶椀を箸で叩くな、 というような生理的なイヤから、 戦争ができるような国家になんて真っ平というようなイヤまで、 数限りなくイヤはあるだろう。
イヤと言い、 イヤなことを拒絶していこうとすれば、 否応なく誰かとぶつかり、 なぜイヤなのかを問われる。 行き詰まることもある。 コソボ空爆がそうだった。
ユーゴ兵士による虐殺をどうやって止めるか、 世界中が思案を始めたばかりというのにNATOは空爆に踏み切った。 人を殺さない、 物を破壊するだけと思わせながら空爆は一万回を越え、 死者は六千人。 有名な知識人たちが次々と空爆を支持したことに驚いた。 正しい戦争なんて!
昨夜見たテレビの 「児童虐待」 でも私は困惑した。 子どもが殺されるかもしれないのに、 実力行使をためらっている児童相談所。 「乗り込め!」 と私は何回も叫んだ。 夜泣きをやめないといって、 なんで雪中に放りだして殴らねばならないのか。 が、 親権には懲戒権が付与されているからと相談所員が言うに及び、 しだいに沈黙を余儀なくさせられる。 自分がまるでコソボ空爆を支持する人のようだったことに気づく。 実力行使が誘拐まがいゆえに、 歯軋りしながら所員たちは堪えているのだが、 体罰を認めた懲戒権こそ私はイヤと言わねばならない。
他人の行為を止めようとする時、 なぜ言葉は無力なのか。 止めようとするそのことが既に暴力だからなのか…。 他者からの承認を人はその深部で生きる力とし、 承認のほとんどを言葉に負うのに、 被害者の《殺さないで》と哀願する言葉は無力…。 世界はその核心部で不可解となる。 ある青年のことも思い出す。 恋人が現れた直後に 「世界はそこそこ楽しい。 だが無意味だ」 と書き残して自死した彼。 ありのままの自分を承認してくれる恋人の登場、 意味はすぐそこまで来ていたのに…。 死ねば、 あるいは殺されてしまえば、 当たり前のことだが続きがなくなる。 私はイヤだと思うことへの正当性を得るため足掻き続ける。 (2000年5月1日 勝山敏一)