No.26 人の不幸に負う職について
テレビで特集 「中坊公平弁護士」 を見た。 今は住専処理会社社長も兼務。 感動的だった。 番組中、 中坊さんの次のような発言に私は瞠目させられた。 豊島の廃棄物処理をめぐって争った香川県側に多数の弁護士がついたことに触れ、 「弁護士という職は、 人の不幸で飯を食べていくという面がある。 医者や坊さんもそうだ。 西洋ではパブリックな職とされる。 こういう職はプロフェッショナルでなければ、 その職の理念に忠実でなければならない。 弁護士業をビジネスとして割り切ってはいけない」 という発言。 中坊氏の言い分を広げると、 どんな職にもそういう面はあり、 その分に応じて 「パブリック性」 を帯びるということになるのだろう。 どんな人にも避け得ない、 誰もが抱えるという意味で 「パブリック」 と呼ぶにふさわしいが、 だからプロフェッショナルでなければいけない、 というのは何故なのか。 プロフェッショナルの理念が 「お客の不幸を最大限に減じる」 ことだとして、 豊島の場合の香川県側に多数の弁護士がついたという事実を、 中坊さんは結局どう見ようとされたのだろう。
小社の出版でも、 戦争の仕組みや被害についての本、 差別を告発する本なども、 人の不幸に負う本、 と言われるのだろうか。 どの本だったか、 新聞記者から 「大型本なのに値段が安い」 と言われたことがある。 とっさに 「人の不幸で儲けてはいけないから」 と答えたことを思い出す。 答えながら 「安ければいいのか」 と不安を覚えていた。 あれは、 中坊さんが取り上げられたように人間の根源にかかわる不安だったのだ。 そのことだけは得心できる。
メディアは 「人の不幸」 を飯のタネにする、 とは一般に言われることだ。 人の不幸そのものが情報価値を持つ場合は多い。 メディアは、 そういう情報を欲しがる人がいる (需要がある) と答えるか、 伝えることでもたらされる 「不幸」 より 「公益」 の方が大きいと判断した、 と言い訳をする。
不幸は相対的である。 中坊さんは、 当事者の不幸を熟視すると 「社会全体の不幸」 や 「公益」 が見えてくるはず、 と言おうとされたのだろうか。 「公益」 という大義の名の下にいつも弱者は踏みにじられてきたのではないか…。 私には解らない。
「職」 というものには、 いつもややこしい点が残る。 中坊さんの 「理念を持て」 という言葉に、 私はただ抽象的に感動して立ちすくんでいる。 (1997年11月10日 勝山敏一)