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新兵の入営

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今は消えた、かつての富山を探ろうと
古い頃の新聞記事を読んでいます。

この記事は明治末の富山日報の記事。

「昨朝七時富山連隊へ入営の新兵を見送りに行く。
夜来の時雨は晴れたが凩(こがらし)は中々に寒い。
社を出ると富山館方向から、連隊に行く腕社(人力車)が十四五台も続いてきた。
その大部分が壮丁(入営する成年男子)で頭髪をクリクリに刈り込んで何れも落ち付かぬ顔をしている。
その一行の先を縞毛布を着た小さなお爺が紫メレンス二幅の大きな旗を担いで重そうに走っている。
風がしたんで重いに違いない。
旗には東岩瀬町と記してあった。」

(以下略)

凄い! さすが東岩瀬町。

富山館は富山城鉄門前の2ノ丸にあった旅館。
富山69連隊に入営する若者を歓送迎しようと
昨夜は旅館で激励。
そして人力車を連ねたのは
当時の東岩瀬町が北前船で栄えていた証ですね。

鼬川を歩く

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明治43年、東京から作家の小西可東が訪れて鼬川を描写している。
その一部を紹介しよう。

可東が桜橋から鼬川の花見橋あたりを訪れた時のこと。
「土蔵の並びには欄干のついた離れらしい座敷が川の上に這い出している。
私は何人がこんな座敷に住むのかと思っていると、
最も手近の最も綺麗な座敷の障子がすうと開いたので、私は息をひそめた。
果然!障子の間から花愧しい一人の美形が現れたのである。」

可東がこの情景を目撃したのは、
枝垂れ柳が生える鼬川の左岸からで、
当時右岸には八清楼(現在のスーパー大阪屋)があった。
左岸には鼬川から水を引いて
「カッチャ」の水車がギィギィと音をあげて廻っていた。
両岸には白壁の土蔵が立ち並び
鼬川には両岸に洗い物をする女性がおり、
16羽ものアヒルが水車に群れていた。

この紀行文読み返し
「鼬川の記憶」を今一度
を旅情的に纏めたいものだと思った。

百歳万歳

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「越中僧・薩摩開教の記憶」を執筆・刊行された飛鳥寛栗(あすか かんりつ)さんは

大正4年生まれで今年百歳。

本を読むと百歳の方が書かれた本とは決して思えません。

実にご立派です。

かくありたいと、ただただ尊敬申し上げる次第です。

越中僧_0001

飛鳥さんの略歴ですが浄土真宗本願寺派飛鳥山善興寺の前住職。

「棟方志功・越中ものがたり」の著者。

棟方志功とも親交がありました。

 

なお善興寺は古刹です。

寺の由緒は善興寺ホームページによれば、

「飛鳥朝の欽明天皇13年(552)に仏教は百済より伝えられました。

仏像を天皇より賜った蘇我氏の菩提寺、法興寺の第7世慧乗法師が、

諸国を巡錫するなかで越中国を訪れ、石動山の麓に勝地を選んで一宇を建立したことが始まりとされます。

霊亀2年(716)のことです。

のちに天台宗の勅願所として「飛鳥山善興寺」の号を賜り、石動山の三分一を功徳田としました。」

高岡市中田にお寺があります。

 

能登取材記

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とある企画で能登珠洲の方に取材に行ってきました。

富山から珠洲までは、高岡から能越自動車道を輪島市まで走り、ここから全線無料化されたのと里山海道を走ります。

能越自動車道からのと里山海道はまだ未接続ですが、それでも珠洲まで3時間かかりませんでした。

能登珠洲市

能登の大きな問題は人口減少。

若者が金沢に流れ、町は高齢化が進んでいます。

特に珠洲市は能登半島の先端にあり高齢化が顕著で、日本の未来を先取りしています。

能登珠洲陶

珠洲といえば珠洲陶。珠洲焼資料館があります。

中世の北陸を代表する焼物です。

ちょうど窯焼き中でした。

能登E

廃線になったはずの「のと鉄道」はここだけ線路が残っています。

能登F

こうやって走るのですね。

恋路海岸の「奥のとトロッコ鉄道」足でごく270mの鉄道。

能登C

九十九湾にも行きました。

ここの「と海洋ふれあいセンター」は海の自然体験館です。

ミニ水族館ともいえるこのセンターは、九十九湾の磯で生活する多彩な生き物を知り、楽しむことができます。

能登A

また磯の観察路は、海の散歩が出き初めての体験でした。

能登にはかつては海が道でした。

ここに活路が見いだせないかと思いました。

能登の里山里海と能登の地域特性を組み合わせ6次産業そして7次産業。

更には観光を交えた10次産業とか。

新たなチャレンジが生まれる地域だと感じました。

 

 

 

神通川

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2016年に向けて、新たな視点で企画を進めています。

その一つが神通川。

富山の七軒町は漁師の町でした。

松川茶屋で聞いた話ですが、

江戸時代に七軒町に住む武士には神通川の漁業権が与えられていたとか。

つまり、富山藩は実に貧乏で家臣には俸禄を与えることができず漁業権

で我慢してもらったのかもしれません。

魚・漁業・鮎寿し・船・橋

今は消えてしまった神通川を回顧していきたいと思います。

松川茶屋