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カテゴリー: 歴史探訪

天下道

カテゴリー:歴史探訪

歴史はおもしろいです。

特に日本海交流史が面白いです。

 

日本海というのは内海です。

この内海を支配したのが太古の昔は「大国主の命」で、古代から中世にかけては安東氏だったのかはと考えます。

この安東氏は鎌倉以来、鎌倉時代末期から南北朝時代を通し津軽十三湊を本拠地とし栄えました。

十三湊以外の安東氏の遺跡としては、北海道・江差に近い上ノ国にある勝山城は空前のスケール。

また南下し秋田郡に拠った一族は上国家を称し、築いたのが脇本城。

安東氏は、若狭の羽賀寺を再建し「日之本将軍」という称号を得ています。

 

私は数年かけて安東氏の遺跡を尋ねましたが、秋田県男鹿半島に築かれた脇本城に残る「天下道」には驚きました。

脇本集落横を通る市道がトンネルに入る手前から菅原神社に至る参道があり、神社脇を過ぎると城内に入ります。

この道を「天下道」と称すとの事です。

この「天下道」は船越方面から脇本集落を抜け、内館の脇本城内に入り船川・北浦方面に抜ける道で、つい最近まで生活道として使われていました。

 

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秋田県 脇本城

この「安東氏探訪記」をブログに連載していきたいと思います。

 

越前・北ノ庄城の亡霊・5

カテゴリー:歴史探訪

柴田勝家の菩提寺は西光寺で天正四年に一乗谷から現在地に移転しました。

天正11年4月24日、北ノ庄城落城の折、勝家とお市の方は西光寺九世真誉上人に遺骸の処理を委託したとされます。

西光寺は現在は足羽川西岸の福井市左内町にあります。

境内には勝家とお市の方の墓石もあります。

 

境内には朝倉氏時代の笏谷石(しゃくだにいし)で刻まれたひび割れた十三仏が寺の由緒を伝えています。

恐らく一乗谷の旧寺跡から移したのでしょう。

そしてこの寺には柴田勝家公資料館が併設され、

資料館には柴田勝家の馬印や宝刀などが展示されています。

特に堀の中から見つかったという北ノ庄城時代とされる笏谷石で刻まれた屋根を飾っていた鬼瓦が目を引きました。

 

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北ノ庄城 鬼瓦

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北ノ庄城 鬼瓦

三体ありますが、それぞれ形相に実にユーモアがあり個性的で職人の技量が判り非常に面白いと思います。

越前・北ノ庄城の亡霊・4

カテゴリー:歴史探訪

では、北ノ庄城での勝家の最後を見て行きましょう。

 

信長が縄張りした北ノ庄城は城が築かれてから8年後の天正11年(1583)、城下は兵火に包まれ、勝家はお市の方と共にこの城で果てました。

勝家の最後を、『羽柴秀吉書状』『ルイスフロイス書簡』『北国全太平記』等によって再現してみましょう。

 

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天正11年(1583)4月20日、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、百騎ばかりで北ノ庄城に辿り着いた。

勝家が北ノ庄城に到着したときには城には三千余の守兵がいた。

しかしその後大半の兵は逃げ出し、城に残った兵は二百ばかりに減っていた。

北ノ庄到着と同時に、勝家は市外の市に火を付けた。

風があったので市はほとんど焼けたという。

勝家を追撃して足羽山・愛宕山に布陣した秀吉は、23日には総構えを乗り越えて本城に迫り、勝家方と10間から15間に対陣した。

つまり本城(本丸)は、10間(18m)から15間(27m)の堀に囲まれていたようで、攻め手は堀際まで迫って陣を置いたのである。

勝家は前年に織田信長の妹、お市の方を妻に迎えていた。

勝家は、お市の方と三人の娘を城外に出そうとしたがお市の方は固辞した。

しかし三姉妹は今回の合戦には関係ないとして秀吉に丁重に迎えられた。

城兵は少なく落城は目前であった。

23日の夜、勝家は本丸で最後の酒宴を催した。

また各矢倉でも酒宴が始まった。

翌日、24日寅の刻(午前四時)秀吉は本城に攻め掛かった。

本城は狭く攻め手の同士討ちで死人手負いも出たという。

勝家は、牛の刻(正午)頃、九層の最上階で

「修理亮か腹のきり様見申候て手本二いたすへき」

と申したところ羽柴方も攻撃の手を休め、勝家とお市の方の最後を見届けるため、あたりはひっそり静まり返った。

まず妻・お市の方を刺し、そして勝家が自害した。

これを見届け各矢倉でも一族・家臣達7・80名が相次いで切腹し天守閣は家臣らが自ら火を付け焼け落ちた。

 

勝家の辞世の句は、

 

「夏の夜の夢路はかなき後の名を雲井にあげよ山ほととぎす」

 

享年62歳という。

お市の方の辞世の句は、

 

「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の夢路をさそう郭公かな」

 

享年は37歳であった。

勝家・お市の方自害の模様は、搦手門から出た老女に語らせたと「ルイス・フロイス書簡」にある。

越前・北ノ庄城の亡霊・3

カテゴリー:歴史探訪

北ノ庄の堀秀政屋敷跡とされるところは、北ノ庄城の足羽川対岸の足羽山山麓、現在の福井市西木田三丁目あたりに旧北陸道に面して築かれ、江戸時代には、堀町、堀小路町という町名となって残っていました。

堀秀政は、天正18年(1590)小田原の陣で没しました。

今も秀政が信仰したという「堀ノ宮」と称された白山神社が木田神社に移転して残っています。

長慶寺には墓もあります。

 

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堀秀政の墓

堀氏は、慶長3年(1598)、越後春日山に転封されるまで、二代13年間にわたって越前を領し足羽山山麓に居館を構えましたが、これは北ノ庄城を修築する間の一時的な屋敷だったのかどうかはよく判りません。

しかし堀秀政が北ノ庄城外に館を構えたことは、北ノ庄城には住まなかったこの証で、これは実に奇妙な事に見えます。

越前・北ノ庄城の亡霊・2

カテゴリー:歴史探訪

越前の北ノ庄城ですが、柴田勝家が滅亡した後、丹羽長秀が加賀・越前・若狭を領して123万石の大大名とりました。

しかし天正13年(1585)4月16日、51歳で没しています。

長秀は北ノ庄に在さず府中に居城したといわれます。

長秀の跡は、堀秀政が十八万石を領して北ノ庄城城主となりましたが、なぜか北ノ庄本丸には住みませんでした。

 

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堀町白山神社

どこに住んだかと言うと福井市西木田あたり。

ここに堀町とか堀小路とかいう地名が残っていました。

堀神社も木田神社に現存しています。

そして、どうも足羽山に城を構えていたようです。

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足羽山からの遠望