今後、砺波平野を題材とした本が次々出版されます。
ここではあえて「となみ野」と書かせてもらいます。
「となみ野」とはどのような地域だったのか?
金沢は百万石と称された前田家の本拠です。
しかし百万石文化が最も色濃く残っているのが富山県南砺市だと思います。
米の生産も百万石のうち砺波平野では25万石を産しました。
すこし歴史を振り返ると砺波平野は戦国時代「越中一向一揆」の拠点でした。
文明13年(1481)田屋川原の合戦で石黒家宗家が滅び、以来100年間以上、加賀一向一揆よりも長く、砺波郡は「百姓の持ちたる国」だったのです。
それを読み解いたのが「勝興寺と越中一向一揆」(久保尚文著)です。
すでに第6版を重ねました。
井波瑞泉寺や城端善徳寺が巨大伽藍を構えています。
井波瑞泉寺に関しては「年表で見る井波瑞泉寺」(千秋謙治編)を参照下さい。
注目すべきは城端善徳寺です。
天正8年に金沢御坊、翌年には瑞泉寺・勝興寺が織田方に敗れ、寺は焼けましたが城端善徳寺は勝ち抜きました。
(南砺市の一味神水の鉢 一向一揆由来の鉢か?)
寺は一度も火災にあわず、寺には古文書や什器など1万点以上の宝物を所有しています。
善徳寺を率いたのは空勝法師。
一説には、身の丈7尺(210㎝)で強力無双。弓・馬・剣術に優れた武人。
大坂石山本願寺にも門徒を率いて参陣。
善徳寺には教如から下された軍配が伝わります。
教如は空勝に強い信頼を置きました。
文禄年間、教如が本願寺門主を退隠させられたとき城端善徳寺を訪れ、空勝と悲哀の涙に暮れたとされます。
砺波平野に東本願寺系寺院が圧倒的なのはそのような背景があるからです。
「越中一向一揆」がその勢力を保ったまま江戸時代に入ります。
加賀藩は村々の経営は十村に任せ百姓には一切干渉しませんでした。
そして明治に入り砺波の百姓の力が爆発します。
それが「アズマダチ」です。
元来、加賀藩の武家屋敷がモデル。
この家を建てる事が「砺波の男」のロマンでした。
となみ野は繁栄の頂点に達しました。
ぜひ「となみ野」を訪ねてみて下さい。
新幹線でお越しの方は、城端線または金沢駅からバスが出ています。