前田家 京都に巨大屋敷
6月18日北陸中日新聞に「前田家 京都に巨大屋敷」という記事が一面に載っていました。
京都 伏見城の前田利家の屋敷で2m四方の柱穴が7ヶ所見つかったという内容。
かつての調査でこの周辺から金箔瓦が大量に出土しているので「非常に豪華な屋敷」が建てられていたのではないかとしています。
この頃、前田領であった越中新川郡では「越中七 金山」と呼ばれた金山・銀山が採掘のピークを迎えていました。
かつて何があったのか?
歴史は面白いですね。
6月18日北陸中日新聞に「前田家 京都に巨大屋敷」という記事が一面に載っていました。
京都 伏見城の前田利家の屋敷で2m四方の柱穴が7ヶ所見つかったという内容。
かつての調査でこの周辺から金箔瓦が大量に出土しているので「非常に豪華な屋敷」が建てられていたのではないかとしています。
この頃、前田領であった越中新川郡では「越中七 金山」と呼ばれた金山・銀山が採掘のピークを迎えていました。
かつて何があったのか?
歴史は面白いですね。
『加越能文庫』のある書物に江戸時代の享保8年(1723年)江戸町屋の人口調査記録が載っています。
将軍・徳川吉宗の時代、享保の改革が実行され、町政は南町奉行所大岡越前守が主導、目安箱の投書から小石川養生所が設けられ風俗取締りも行われました。
特に「吉原人別」は貴重な記録のように思います。
吉原にはずいぶんたくさん住んでいたのですね。
江戸町数 1,772町
家の数 88,500余り
人口 1,285,300人
男 581,800余人
女 697,500余人
その他
座頭 3,840人
出家 53,130人
山伏 7,230人
神主 3,580人
吉原人別 14,500余人
男 8,200余人
女 6,300余人
内遊女 2,500人
但し、「天明7年(1787)の記禄と合致しない」という事で本記には採用されず「除外メモ」として残されていました。
前田家は百万石を維持するために実に細心の注意を払っていました。
加賀藩の最優先課題は江戸との関係。
当初120万石あったのですが、寛永16年(1639)富山藩と大聖寺藩に分藩。
そして百万石の富はすべて金沢に集まります。
そして加賀文化が生まれました。
金沢を代表する加賀友禅もその一つです。
越中婦負郡を中心とした富山藩は石高10万石。
ところが前田利次が率いた家臣団の石高は、合計すると8万石に及びます。
この家臣団ですが、寛文の頃と寛永の頃とは家臣団が少し違っています。
宗藩と入れ替えがあったにせよ、何があったのか?
ところで「政隣記」を引用する「加賀藩史料」ですが誤字脱字が多いとされます。
桂書房では原本「政隣記」を読み解き補完した「政隣記」を順次刊行しています。