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福光麻布

カテゴリー:その他

富山県南砺市の旧福光町は「福光麻布(あさぬの)」の産地でした。

昭和天皇の大喪の礼には福光麻布が調達されました。

しかし、これを最後として現在では廃業となり調達できません。

 

そこで桂書房では「福光麻布」製造工程を記録保存するプロジェクトを立上げ、来年をめどに『麻布手仕事図鑑』発刊を目指し編集に取り掛かりました。

福光麻布は「いざり機(はた)」で織られる全国でも珍しい製法でしたが、廃業とともにその製法も失われました。

幸い、いざり機は一台残っていますが、製造工程を復元するのは極めて難しいのです。

それは福光麻布は農家の副業で、かつ分業体制で行われていたので廃業とともにすべてが失われたのです。

福光麻布の起源は、平安遷都の延暦13年〈794)勅命による御霊場建立のため進物用として織られたとされます。

 

将来、復活される場合、その基本資料として制作できればと思っています。

 

となみ野

カテゴリー:となみ野探検

今後、砺波平野を題材とした本が次々出版されます。

 

ここではあえて「となみ野」と書かせてもらいます。

「となみ野」とはどのような地域だったのか?

 

金沢は百万石と称された前田家の本拠です。

しかし百万石文化が最も色濃く残っているのが富山県南砺市だと思います。

米の生産も百万石のうち砺波平野では25万石を産しました。

 

すこし歴史を振り返ると砺波平野は戦国時代「越中一向一揆」の拠点でした。

文明13年(1481)田屋川原の合戦で石黒家宗家が滅び、以来100年間以上、加賀一向一揆よりも長く、砺波郡は「百姓の持ちたる国」だったのです。

 

それを読み解いたのが「勝興寺と越中一向一揆」(久保尚文著)です。

すでに第6版を重ねました。

 

井波瑞泉寺や城端善徳寺が巨大伽藍を構えています。

井波瑞泉寺に関しては「年表で見る井波瑞泉寺」(千秋謙治編)を参照下さい。

 

注目すべきは城端善徳寺です。

天正8年に金沢御坊、翌年には瑞泉寺・勝興寺が織田方に敗れ、寺は焼けましたが城端善徳寺は勝ち抜きました。

一味神水の鉢

(南砺市の一味神水の鉢 一向一揆由来の鉢か?)

 

寺は一度も火災にあわず、寺には古文書や什器など1万点以上の宝物を所有しています。

善徳寺を率いたのは空勝法師。

一説には、身の丈7尺(210㎝)で強力無双。弓・馬・剣術に優れた武人。

大坂石山本願寺にも門徒を率いて参陣。

善徳寺には教如から下された軍配が伝わります。

教如は空勝に強い信頼を置きました。

文禄年間、教如が本願寺門主を退隠させられたとき城端善徳寺を訪れ、空勝と悲哀の涙に暮れたとされます。

砺波平野に東本願寺系寺院が圧倒的なのはそのような背景があるからです。

 

「越中一向一揆」がその勢力を保ったまま江戸時代に入ります。

加賀藩は村々の経営は十村に任せ百姓には一切干渉しませんでした。

そして明治に入り砺波の百姓の力が爆発します。

それが「アズマダチ」です。

元来、加賀藩の武家屋敷がモデル。

この家を建てる事が「砺波の男」のロマンでした。

となみ野は繁栄の頂点に達しました。

 

ぜひ「となみ野」を訪ねてみて下さい。

新幹線でお越しの方は、城端線または金沢駅からバスが出ています。

 

 

 

新刊案内「石黒党と湯浅党」

カテゴリー:新刊案内

「石黒党と湯浅党」ですが、7月21日発刊予定です。

 

中世の頃ですが、越中国砺波郡に石黒党がありました。

また、紀伊国有田郡には湯浅党がありました。

現在富山県南砺市の旧福光町には紀伊国由来の湯浅を姓に持つ家が多くあります。

有田郡には湯浅家は数少ないのに、なぜ砺波郡に湯浅家が存続しているのか?

それは何故なのか?

砺波野

ヒントはこの写真の中に隠されています。

本著は歴史の動乱の中を福光で生き抜いた石黒党と湯浅党を追います。

越前・北ノ庄城の亡霊・5

カテゴリー:歴史探訪

柴田勝家の菩提寺は西光寺で天正四年に一乗谷から現在地に移転しました。

天正11年4月24日、北ノ庄城落城の折、勝家とお市の方は西光寺九世真誉上人に遺骸の処理を委託したとされます。

西光寺は現在は足羽川西岸の福井市左内町にあります。

境内には勝家とお市の方の墓石もあります。

 

境内には朝倉氏時代の笏谷石(しゃくだにいし)で刻まれたひび割れた十三仏が寺の由緒を伝えています。

恐らく一乗谷の旧寺跡から移したのでしょう。

そしてこの寺には柴田勝家公資料館が併設され、

資料館には柴田勝家の馬印や宝刀などが展示されています。

特に堀の中から見つかったという北ノ庄城時代とされる笏谷石で刻まれた屋根を飾っていた鬼瓦が目を引きました。

 

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北ノ庄城 鬼瓦

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北ノ庄城 鬼瓦

三体ありますが、それぞれ形相に実にユーモアがあり個性的で職人の技量が判り非常に面白いと思います。

越前・北ノ庄城の亡霊・4

カテゴリー:歴史探訪

では、北ノ庄城での勝家の最後を見て行きましょう。

 

信長が縄張りした北ノ庄城は城が築かれてから8年後の天正11年(1583)、城下は兵火に包まれ、勝家はお市の方と共にこの城で果てました。

勝家の最後を、『羽柴秀吉書状』『ルイスフロイス書簡』『北国全太平記』等によって再現してみましょう。

 

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天正11年(1583)4月20日、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、百騎ばかりで北ノ庄城に辿り着いた。

勝家が北ノ庄城に到着したときには城には三千余の守兵がいた。

しかしその後大半の兵は逃げ出し、城に残った兵は二百ばかりに減っていた。

北ノ庄到着と同時に、勝家は市外の市に火を付けた。

風があったので市はほとんど焼けたという。

勝家を追撃して足羽山・愛宕山に布陣した秀吉は、23日には総構えを乗り越えて本城に迫り、勝家方と10間から15間に対陣した。

つまり本城(本丸)は、10間(18m)から15間(27m)の堀に囲まれていたようで、攻め手は堀際まで迫って陣を置いたのである。

勝家は前年に織田信長の妹、お市の方を妻に迎えていた。

勝家は、お市の方と三人の娘を城外に出そうとしたがお市の方は固辞した。

しかし三姉妹は今回の合戦には関係ないとして秀吉に丁重に迎えられた。

城兵は少なく落城は目前であった。

23日の夜、勝家は本丸で最後の酒宴を催した。

また各矢倉でも酒宴が始まった。

翌日、24日寅の刻(午前四時)秀吉は本城に攻め掛かった。

本城は狭く攻め手の同士討ちで死人手負いも出たという。

勝家は、牛の刻(正午)頃、九層の最上階で

「修理亮か腹のきり様見申候て手本二いたすへき」

と申したところ羽柴方も攻撃の手を休め、勝家とお市の方の最後を見届けるため、あたりはひっそり静まり返った。

まず妻・お市の方を刺し、そして勝家が自害した。

これを見届け各矢倉でも一族・家臣達7・80名が相次いで切腹し天守閣は家臣らが自ら火を付け焼け落ちた。

 

勝家の辞世の句は、

 

「夏の夜の夢路はかなき後の名を雲井にあげよ山ほととぎす」

 

享年62歳という。

お市の方の辞世の句は、

 

「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の夢路をさそう郭公かな」

 

享年は37歳であった。

勝家・お市の方自害の模様は、搦手門から出た老女に語らせたと「ルイス・フロイス書簡」にある。