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佐伯哲也のお城てくてく物語 第19回

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佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第19回 山城の建物はほぼ不明

 現在中世城郭の復元図と称する図面が氾濫している。カラーでリアルなため、好評を得ているようだ。しかし、ほとんどが根拠皆無の空想図で、発掘調査もしていないのに、なぜこのような建物が建っていたと推定できるのか、全く理解に苦しむ。たとえ発掘をしていても、発掘結果に基づかない図面すらあり、さらにそれを地元教育委員会が後押ししているのだから始末が悪い。地元活性化のため、ある程度はやむを得ないと思うが、間違った概念を植え付ける恐れがあり、もろ手を挙げて歓迎する気になれない。
 それでは、中世の山城にはどのような建物が立っていたのであろうか。まず現存する建物は存在せず、確実な絵画史料も存在していないため、ほぼ不明なのが実情である。有名な安土城天守閣でさえ復元案が多数あり、どれも「イマイチ」な内容となっている。
 発掘調査をすれば判明するのか、と聞かれるが、これもほとんど不明のままである。発掘により検出するのは柱穴や礎石だけで、これでは平面的な形状や大きさは判明するが、どのような上屋が立っていたのか、わかるはずがない。もっとも瓦や土塀も出土しないので、屋根は藁ぶきか板葺き、壁は板壁と推定され、極めて簡素な小屋程度が想定されるのである。
 簡素な小屋とはいうものの、山城にとって重要な小屋だったと考えられる。比較的広範囲に発掘調査が実施された白鳥城(富山市)では、礎石と雨溝が検出された。大きさから小屋程度の建物と考えられたが、問題は四方を巡る雨溝である。礎石は柱から土中の湿気が小屋内部に浸入するのを防止し、雨溝も湿気が小屋内部に浸入するのを防ぐ対策だったと考えられる。つまり小屋は極端に湿気を嫌う品物を保管する倉庫だったと考えられるのである。湿気を嫌う品物、それは火縄と火薬と考えられ、火縄銃を保管する倉庫だったのである。城兵達の命運を左右する重要な倉庫だったといえよう。
 上杉謙信の書状により、宮崎城(朝日町)に曲輪の周囲に塀(恐らく板塀)が存在していたことが判明している。謙信の書状には居住施設の言及はない。恐らく粗末な小屋程度だったのであろう。これは越前一向一揆が籠城した木ノ芽峠城塞群に、雨漏りする小屋しか存在していなかったことからも推定できる。山城に豪華な天守閣や御殿を想定してはならない。

宮崎城(朝日町)