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過去の記事: 2022.12月

佐伯哲也のお城てくてく物語 第12回

カテゴリー:お城てくてく物語

佐伯哲也の お城てくてく物語

 

 

第12回 最高のもてなしは風呂?

 ほんの一部の上流階級者を除いては、戦国時代の移動手段は、ほぼ徒歩である。一日も歩けば汗と埃にまみれていたことであろう。雨降りでの移動となれば、ビショビショのグチャグチャとなり、最悪のコンディションとなる。
 こんな状況だから、旅人にとって一日の終わりに風呂に入って汗を流し、疲れをいやすのは至福の一時だったに違いない。しかし当時の風呂は非常に珍しく、領主の居館や寺院などにしか存在しなかった。このため戦国時代の旅人の多くは、風呂について特記している。
 風呂使用の一例を記す。京都から越後に下向する歌人・冷泉為広は延徳3年(1491)新川郡守護代椎名氏の居館(魚津市 後の魚津城)で宿泊する。日記の中で「風呂アリ」と特記していることから存在そのものが珍しく、旅塵にまみれた為広にとって、とてもありがたい存在だったのであろう。魚津城絵図
 室町時代の禅僧・万里集九は延徳元年(1489)越中から飛騨に入り、安国寺(高山市)で宿泊し、風呂のもてなしを受けている。集九は日記に「行旅の楽しみ、浴場にしくは無し。満身の塵垢、泥裳を脱す」と記述する。久々に風呂を使ったのであろう、垢まみれ・泥まみれの状態から脱出し、至福の一時を過ごしたことを述べている。やはり旅人にとって風呂は最高の癒しの場だったのである。
 このときの風呂とはどのような施設だったのか。大量の湯を沸かす技術が無い当時にとって今のような大浴場などとんでもないことで、多くは蒸し風呂、すなわちサウナのような施設だった。『慕帰絵』という絵巻物に描かれた風呂は、大釜で湯を焚き、その湯気を浴室に送っている。つまりサウナだったのである。一乗谷朝倉氏遺跡で発掘された風呂もこのタイプだったと考えられる。集九も為広もサウナに入ったのであろうか。
 江戸時代に入ると、大名屋敷に設けられた風呂は、浴槽に湯を張り、一般的な施設となる。湯加減について身分の関係上、お殿様がじかに湯番に命令することはできず、まず御家老に伝えられ、そして湯番に伝えられた。従ってお殿様が自由自在に温度調節することはできなかったのである。とても寒かったと不満を漏らすお殿様もいた。お殿様にとって風呂は、必ずしも癒しの場ではなかったようである。