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過去の記事: 2016.3月

安田善次郎(2)

カテゴリー:その他

安田善次郎は幕末の安政5年、20歳で奉公人として江戸に出た。
いくつか奉公先で才能を開花させ、慶応2年26歳で両替商・安田商店を日本橋小舟町に開いた。

善次郎は幼少は岩次郎と称し、若い頃は富山では守田屋の岩公と呼ばれていた。
母親や太田千代といい富山市水橋の出であった。
善次郎は色白で福々しい風格であったという。
人とは争わず、寺子屋にあっては幼い頃から能書で、
手紙を頼まれればスラスラと達筆でしたためた。
明治末年頃、岩次郎の幼なじみが語ったところによれば、
岩次郎は10代の頃にはすでに商才に長けていた。
そして越中の都市間の物品の物価相場を良く調べていた。
具体的な逸話として、岩次郎は友人と干し柿を魚津方面に売りに行ったことがあった。
その際、岩次郎は安価な魚津漆器を見つけた。
これを富山で売れば駄賃が稼げると、これをしこたま買い込んで富山に帰った。
後に友人が聞いたところでは高く販売でき利ザヤを稼げたという。
魚津漆器は魚津腕とも呼ばれ一時期、魚津町の一大産業にまで発展した。
岩次郎は漆器の相場を良く理解していた。
このように、岩次郎は江戸に行く前から商業を営んでいた。
当時富山藩士が内職をするのは当たり前の事で、富山売薬の丸薬を丸めるのは下級武士の仕事だったという。
その後まもなく岩次郎は江戸に旅立った。

安田善次郎

カテゴリー:その他

富山県は実業家を多く産み出した県だ。
富山市からは安田善次郎という偉大な実業家を産み出した。
善次郎は富山藩下級武士、安田善悦の子としてうまれる。
生まれた所は、富山市愛宕町で現在は安田記念公園となっている。
父親は下級武士、足軽とされているが、富山藩は実に貧乏であった。
例えば七軒町の武士達は神通川の漁で生計を立てていた。
善次郎の父親は畑作者で暮らしていたが、当時そこは鍋屋小路と呼ばれていた。
昔は太夫町とも沼の高とも呼ばれた貧乏人ばかりいた所であった。
善次郎が東京に出た後、その家は他人に渡っていた。
当時の面影は小路の角にある地蔵堂のみだが、当時は東向に格子戸の玄関を構える生家が残っていた。

大正7年頃、この鍋屋小路にでっぷりと太った紳士が夫人を同伴して訪ねてきた。
この界隈は、当時は「労働者街」で袢纏が街に似合っていた。
しかし紳士の身なりは、街の人々には似つかわしくなく人々は奇異の目で見ていた。
老夫婦は懐かしそうに辺りを見回しながらその家の前に立って何かを囁いていたという。
翌日、再び現れた老夫婦は持ち主の家を訪ねた。
価格交渉が始まったが不成立に終わった。
その差額はわずかに100円程。
後に、老夫婦は善次郎夫妻で目的が生家の永久保存であったという。
その経緯が当時の新聞記事となっている。