越前・北ノ庄城の亡霊・4
では、北ノ庄城での勝家の最後を見て行きましょう。
信長が縄張りした北ノ庄城は城が築かれてから8年後の天正11年(1583)、城下は兵火に包まれ、勝家はお市の方と共にこの城で果てました。
勝家の最後を、『羽柴秀吉書状』『ルイスフロイス書簡』『北国全太平記』等によって再現してみましょう。
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天正11年(1583)4月20日、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、百騎ばかりで北ノ庄城に辿り着いた。
勝家が北ノ庄城に到着したときには城には三千余の守兵がいた。
しかしその後大半の兵は逃げ出し、城に残った兵は二百ばかりに減っていた。
北ノ庄到着と同時に、勝家は市外の市に火を付けた。
風があったので市はほとんど焼けたという。
勝家を追撃して足羽山・愛宕山に布陣した秀吉は、23日には総構えを乗り越えて本城に迫り、勝家方と10間から15間に対陣した。
つまり本城(本丸)は、10間(18m)から15間(27m)の堀に囲まれていたようで、攻め手は堀際まで迫って陣を置いたのである。
勝家は前年に織田信長の妹、お市の方を妻に迎えていた。
勝家は、お市の方と三人の娘を城外に出そうとしたがお市の方は固辞した。
しかし三姉妹は今回の合戦には関係ないとして秀吉に丁重に迎えられた。
城兵は少なく落城は目前であった。
23日の夜、勝家は本丸で最後の酒宴を催した。
また各矢倉でも酒宴が始まった。
翌日、24日寅の刻(午前四時)秀吉は本城に攻め掛かった。
本城は狭く攻め手の同士討ちで死人手負いも出たという。
勝家は、牛の刻(正午)頃、九層の最上階で
「修理亮か腹のきり様見申候て手本二いたすへき」
と申したところ羽柴方も攻撃の手を休め、勝家とお市の方の最後を見届けるため、あたりはひっそり静まり返った。
まず妻・お市の方を刺し、そして勝家が自害した。
これを見届け各矢倉でも一族・家臣達7・80名が相次いで切腹し天守閣は家臣らが自ら火を付け焼け落ちた。
勝家の辞世の句は、
「夏の夜の夢路はかなき後の名を雲井にあげよ山ほととぎす」
享年62歳という。
お市の方の辞世の句は、
「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の夢路をさそう郭公かな」
享年は37歳であった。
勝家・お市の方自害の模様は、搦手門から出た老女に語らせたと「ルイス・フロイス書簡」にある。