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過去の記事: 2015.6月

越前・北ノ庄城の亡霊・1

カテゴリー:歴史探訪

桂書房では『越中怪談紀行』を編纂中ですが、これには所載しない「北ノ庄城の亡霊」についてシリーズでブロクに掲載していきます。

 

戦国時代、織田信長の家臣で、猛将として天下にその名を轟かせた柴田勝家が最後に居城したのが越前の北ノ庄城、現在の福井城です。

北ノ庄城は、天正三年(一五七五)、越前を制圧した織田信長が北ノ庄に赴いた際、自ら縄張りした城で、城将として柴田勝家を置きました。

 

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福井城 惣構え

江戸時代の記録『越藩拾遺録』のなかに「北庄城地之事」として、「柴田勝家天正十一年四月廿四日生害アルハ、今ノ鳩之御門南之舛形之所、古ノ天守ノ跡也」とあります。

ここに柴田神社が造営されています。

この神社が建立された理由は「ここに奇怪なことが起こった」ので勝家の霊魂を杉田屋敷内に祭った祠が始まりといわれます。

 

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北ノ庄城 想像図

その奇怪なこととは、

4月24日に夜半勝家の亡霊が、馬に跨り九十九橋を渡って本丸に帰るという。

これを見た者は、この年に死ぬという伝説があり、北ノ庄本丸にあたる杉田屋敷を始め付近一帯の屋敷は夕刻の6時以降は雨戸を閉め、夜間の外出を控えました。

 

前田家 京都に巨大屋敷

カテゴリー:歴史探訪

6月18日北陸中日新聞に「前田家 京都に巨大屋敷」という記事が一面に載っていました。

京都 伏見城の前田利家の屋敷で2m四方の柱穴が7ヶ所見つかったという内容。

かつての調査でこの周辺から金箔瓦が大量に出土しているので「非常に豪華な屋敷」が建てられていたのではないかとしています。

 

この頃、前田領であった越中新川郡では「越中七 金山」と呼ばれた金山・銀山が採掘のピークを迎えていました。

かつて何があったのか?

歴史は面白いですね。

吉原人別

カテゴリー:歴史探訪

『加越能文庫』のある書物に江戸時代の享保8年(1723年)江戸町屋の人口調査記録が載っています。

将軍・徳川吉宗の時代、享保の改革が実行され、町政は南町奉行所大岡越前守が主導、目安箱の投書から小石川養生所が設けられ風俗取締りも行われました。

特に「吉原人別」は貴重な記録のように思います。

吉原にはずいぶんたくさん住んでいたのですね。

 

 

江戸町数 1,772町

家の数  88,500余り

人口   1,285,300人

男  581,800余人

女   697,500余人

 

その他

座頭   3,840人

出家   53,130人

山伏     7,230人

神主     3,580人

 

吉原人別 14,500余人

男   8,200余人

女   6,300余人

内遊女 2,500人

 

但し、「天明7年(1787)の記禄と合致しない」という事で本記には採用されず「除外メモ」として残されていました。

明智光秀の塚

カテゴリー:新刊案内 歴史探訪

桂書房では『越中怪談紀行』を編纂中です。

ベースになっているのが大正の頃の「高岡新報」の越中怪談という連載記事。

富山県内の色々な話が纏められています。

その記事の中に富山市辰巳町にあった宥照寺に明智光秀の塚があったと書いてありました。

出典は『越中奇談集』。

光秀の兄が宥照寺住職であったとあります。

光厳寺の東側、鼬川に沿って寺がありました。

今は、寺はありませんが気になりますね。

明治43年富山市街図

明治43年20000分1の地図に寺のあった場所を入れました。

金沢百万石祭り

カテゴリー:金沢

金沢百万石祭りの目玉の一つに加賀鳶梯子登り演技があります。

加賀鳶1

 

加賀鳶2

 

 

金沢市消防団のホームページによれば

「梯子登りは江戸時代、火消しが火災現場で高い梯子を立て、頂上から火事の状況や風向き、建物の状況を確かめたことが始まりで、さらには高所での作業を行うための訓練、度胸、勇気をつけるためにも行われたと言われています。」

とあります。

この加賀鳶は江戸の加賀藩大名火消が由来で「特異な装束と威勢の良さ、見事な火消し活動で名高かった」とあります。

後継者育成のため金沢の子供たちの「金沢子どもはしご登り教室」が開催されています。

私の友人のお子様が梯子登りしている勇ましい写真を拝見したことを思い出しました。